スナップショッツ

7月25日、月曜日。今週も頑張ろう。

今日はiphoneで撮影した写真をアップしてみる。iphoneで撮ったものは、D80ではとらないもの。あるいはLUMIX TZ-7でも撮らないスナップショット。何かをしっかり撮ろうと思えばD80を使う。でもそれは日常的に持ち歩くには重いのでコンパクトなTZ-7を鞄に入れて持ち歩いている。街中でふと何か気になったらTZ-7を使う。けれどわざわざ鞄から取り出して撮影するのは面倒くさいなと思った時にポケットからiphoneがスラリと登場する。iphoneで撮影したものが最も日常的な風景であるはずだが、退屈である可能性※もある。


「可能性」という言葉で1つ思い出がある。高校生の頃、残暑厳しい2学期初め、Y.T君と僕は悪い事をしでかして停学を1週間くらったことがあった。学院長室にYと僕、それぞれの保護者2人(両方とも母)が呼び出され学院長よりドラマの様な説教をされる。勿論教頭先生は隣りでうなづいている。2人の母は繰り返し「申し訳ありません、申し訳ありません」と謝罪する。僕とYは平然としていた。言われた通り毎日反省文を書いて先生に速達で送っていた。反省文なんて1回書けばそれ以上反省する事なんてないのだ。大して悪い事ではなかったのだから。しかし毎日毎日反省しなければならない。だから違う視点から自分を見つめ直し、反省しなければ同じ様な文章ばかり送ってしまう事になる。それはまずい。何とかこの単細胞的な思考回路「僕が悪かったです。ごめんなさい」を、もっと複雑でフラジャイルな心境にして描かなければと頭をひねった。そのため途中からそれは反省に辿り着く為の壮大なストーリー/FICTIONと化していた。そんな事思ってもいないけどこの様に書いたら心から反省している風に見えるだろうと、ちょっとズル賢くなったのだった。Y.T君も同じ様に反省文をかいたはずだ。そして1週間後、芥川賞並の文章を書ききった僕は自慢げに校長室に現れる。彼は頭を坊主にし、しっかりと眼鏡をかけ校長室に現れた。僕は普段通りの学生服で特別な処置はなにもしなかった。何故か彼は「反省したようだね」といわれ、僕は「反省が足りない」と言われる。文章なんか関係ないのか、、、やはり見た目か。後で2人で笑った。お前の方がずる賢いなあと。その時である。大学の名誉教授E先生、その当時の僕の高校の学院長だった。校長室、定番のレザーソファーにお互い座っていた。

先生「もう2度とやらないかね」
私「はい、その可能性はございません。」
先生「馬鹿モノ!!!そんなことは可能性とはいわん!危険性というんだ!」(ガシャガシャーー!!!ガラスの割れる音 (嘘=フィクション)

さすが日本文学の教授。言葉使いに関してもしっかりと叱られたのであった。

という事をふと思い出したので書いてみた。ブログとはそういう瞬間的に思い出したものを記録するスケッチブックである。



日曜日の昼、ジムへ行く前。フラットから近いカフェや薬局、文具屋、ランドリー、レストラン等が並ぶ閑静なストリート。歩いてすぐ来られるので天気のいい日にラップトップをもってカフェで勉強などするには最適の場所。地元の人しかこないストリートだから観光客で込み合ったりしなくて良い。


ジム直前。閑静なストリートの続き。上の写真が向いている方向に歩いて2、3分。高級住宅街。いつもこの通りを歩いてジムに行く。平行に走っている道がもう1つあるのだが、一本違うだけで全く雰囲気が違う。こちらを歩く方が全く得なのである。


今日の昼頃のカムデン・カナル。いつの間にやらカナル一面緑の藻らしきもので覆われていた。いい天気なので運河沿いは活気がよい。カナルに面した高台のベンチに座りランチ。


今日の夕方。仕事が終わってから今週の食料を買いにセインズベリーズへ。いつも歩く道の車道が閉鎖されている。何やら工事現場の真ん前のようだ。よく見てみるとコンクリートの塊とコンクリートの型枠が並んでいる。こういうのはプレキャストとは言わないだろう。しかし敷地から外れて道路のど真ん中でキャスティングされている。現場打設とはちょっと違う。。面倒くさいから路上に置いてったのか。まあ誰も持ち帰れないから確かに明日の朝消えてなくなったらどうしようなど、そんな心配はなさそうだ。何か名称があるのだろうかこういう構法。