東京にて2

29日の事を、30日の夜日付が変わる直前に記録中。

僕の弟君の部屋で目覚める。弟君は年末だから友人達と久しぶりの時間を楽しんでいるようなので部屋を貸してくれた。部屋を少し片付けて昼過ぎに外出。東京観光。日本人なのだけれども、外国人的な視点で目が動いていた気がする。ドラッグストアのカラフルな広告に目が停まったり、永遠とお辞儀を繰り返すおばあちゃん達とか、電車の列に律儀に並列する人達。

15時前明治神宮前駅難波和彦先生の事務所に挨拶に訪れた。先に小見山君と田中さんが結婚されるのでその報告の後に遅れて合流させていただいた。難波先生は半年前にお会いした時とお変わりなさそうでよかった。僕は変わった様に見られたようだった。たしか僕の12月のロンドンでの生活レベルは、僕の祖父母が明言した通り戦後日本の水準であったので、仕方ない。傷の回復は現在進行中であります。ブログの話や(※1)、建築の話をしてくださった。小見山君の難波さんへの
ウィスキーは、石山さんにも差し上げた。でも僕は酒が1滴も飲めないので、テイスティングなんてしなかった。少しいただいたのだけれども、辛かった、辛すぎたそしてPEATYだった。PEATYとはウィスキーの味を説明する事だ。つまり燻製のような芳しい香りで、炭をかじっているような味の事なのだが、その香りは良かったかな。飲めないのにお酒を貰っていただくというのはぁ、、ちょっと考えなきゃな。難波さんと小見山君は難波研のOB会へ。田中さんと僕は駅へ。

17時頃、石山研の丹羽さんのご自宅を訪問。久しぶりの丹羽さんと菜生さん。お二人ともお変わりなく元気そうで良かった。驚いた事に完璧なコース料理まで用意してくださっていて恐縮してしまった。前菜、メイン、パスタ、デザート。恐縮。僕のロンドンバスのお土産が一段と小さく見える。でも恐縮しながらもずっと色んな会話に花が咲いた。音楽の事や建築の事、石山研の過去のプロジェクトであったロンドンV&A「VISION OF JAPAN」の話や秘蔵カタログなど、背筋が伸びた。向こうに帰る原動力にしたい。NEWSWEEKにのったVISION OF JAPANの評価。その中で外交官はこういっていた、「ここに並んでいるのはガラクタの集まりだ」。石山さんと丹羽さんはこれをみてにんまりしたそうだ.スキャンダラスな出来事だったのだ。いやあ、してやったりだ。

※1
このブログを打っている内に日付はいつのまにやら大晦日に。いつもの様にブログ解析のページをチェックすると、ユニークアクセス数が異様に高くなっていた。海老蔵とか、小沢とか一度も書いた事ないのにこの上がり様はなんだ、何かあるな、と思って探索していると難波先生が29日の神宮前日記に本ブログのアドレスをリンクしてくださっていた事が判明し、納得。難波さんが述べられている様に、僕もブログは単なる過去の出来事を記録する日記ではないと思っている。1日を振り返り、僕自身の意識的・無意識的な行動、言動、思考を整理して言葉で記述する、そして読んでみる。当たり前の様に一度書いた文章を間をあけて読むとイラっとする。でもその違和感は自分を外から眺めている事の表れであり、そこから何かを発見し、意味があるものにもっていく必要がある。「何か」とは恐らく難波さんが参照された「球と迷宮」における「計画」だと思う。

石山さんに昔、僕は手が動き、その右手は脳みそと直結している。それは僕のタレントではあるが、それではいずれ駄目になると言われた。建築の造形や計画を自分の欲望や無意識に頼っていては、社会性=建築なんて成立しない。だから歴史を参照し、現在を生きる自分自身を、遠い昔の産業革命からミース・コルビジェ等等、到底及ばないであろう巨匠達から続く歴史の延長上に置いてみる。そして振り返り、主体=僕=建築家は一体何をするべきなのかを捜さなければならない。世界が向かおうとしているベクトルを感じて社会的必然性を発見し、仮説を建て、建築的表現に昇華しなければならないのだと思う。この一連の流れ=プロセスが建築=計画であると思う。

A型だからといって毎日を完璧な計画として実行するなんて不可能に近い。だからその必然的な不計画性の中から未来へ遠方投げできる計画の種みたいなものを発掘するのだ。自分自身の生き方をサイバネティックス的に制御し管理しているのだ。
このブログはそのツールとして活用している。ただ、意味ある文章が書けているかというとそうでもないのは事実である。)