AVATAR 観てきた

夜25時前、フラットに帰宅。クリスマスよりも前に予約しておいた映画、AVATARIMAX3Dの巨大スクリーンで観てきた。久しぶりに傑作を観て爽快な感じだった。押井守が完敗したと断言したのも頷けた。

物語構造・展開、キャラクターや世界観のデザイン、何をとっても非常に簡潔で高いクオリティだった様に思う。どのクリエイティブの世界にも「オリジナル」という言葉が持つ魅力と尊厳的なものがあるが、この際、この映画を評価するにあたってはそんな価値基準は無いとして考えたい。この映画は監督の知的なブリコラージュ/色んな映画の断片の再編成による演出、簡潔な物語構造、そしてそれらを台無しにしない良く練られたハリウッドのコンピューターグラフィックスの怪力によって成立している、そういう気がするからだ。今迄に、特に最近のSF映画が追求してきた世界観を組み合わせてできている様に思った。だから真新しさはあまり感じないのだが、ジェームズ・キャメロンの脳で入念に練られた物語の上で、コンピューターグラフィックスの圧倒的な腕力(デザイン)がその物語を補完・補強、そして増幅するように用意されているように見えた。

キャラクターデザインは非常によかった。抜群に物語の流れとうまくマッチした。青い肌の原住民パンドラは最初の方では、ちっとも感情移入されないのだが、観ているといつの間にか、気持ちは原住民の方へと移っていく。主人公がアバターを介して変化していく心の動きを、観客も見事に味わえる。原住民の色、身体のスケール、文化的設定、世界観がまじで絶妙だ。原住民の生きる世界=森、自然も圧倒的だ。これが本当の「デザイン」の威力というものだろう、、、と、ちょっと妬みを感じてしまう程だった。

宮崎駿監督の映画に見られるモチーフも多く観られた。かなり多かった。モチーフだけでなくシーンにもそういう断片が多く観られた。僕は特にもののけ姫と近接しているシーンが多かった様に思う。人間と動物、人工と自然、テクノロジーと神秘。そういう二元論的な世界、二項対立を宮崎駿はアシタカを中立的な存在として位置づけ両方をいったりきたりさせ、水と油の世界に均衡をもたらそうとする。この行ったり来たりが物語が展開する為の原動力になり、この往復自体をジェームズ・キャメロンは主題として扱った、つまりAVATARによって。(最後どうなるかは勿論書けないが)、この両者の映画の終わらせ方は全く異なったのが印象的だった。

まあいずれにしても、大満足の映画だった。しばらくこれを超える映画はないんじゃなかろうか。押井守監督は非常に悔しいだろうな。描きたい世界観がここまで解りやすく、そして何より圧倒的なアメリカンテクノロジーのパワーで宣言されたのだから。
まだまだ書きたい事が山ほどあるが、書きすぎると自分でも収拾がつかなくなり、何を言いたいのかよくわからなくなるので辞めます。そして寝ます。英語も無理ですねこれは。


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