あと1日頑張るか

17日木曜日。ここ2日間力を注いでいた1:50モデルが昨晩完成、今日の昼のミーティグで使用され帰ってくるのを待っていたら、ミーティング終わりのボスがやってきてスーパーナイスモデルだったので、クライアントがキープしてしまった、ということで返ってこなかった。「スーパーナイスモデル」と、ボスからの労いがあったので良し、クライアントにも気に入ってもらえたのだろう。

本日は打って変わって家具図面。シェーカーとかビクトリアン、ジョージアンとか、カントリーコテージ風など、家具デザインのスタイルを維持するのは難しいが、面白い。スタイルの分類は大体装飾で判断できる。
何が原因か解らないが、スカーティング/幅木とコーニス/蛇腹(壁、柱上部の水平材の装飾)をキャドでサラッと描いてみると、スタイルが決まっていないとアンバランスなデザインに見えてくる。目がそういうスタイルや様式の組み合わせのバランスを無意識的に把握し、その均衡が保たれている領域を超えた場合に、なんだかこのデザインはオカしい、、と思うのだろうか。取りあえず、いくつかのオプション(大半はエレベーション)をつくって、見比べる。結局、「これが美しい」という以外、ある1つのデザインを選択する説得力のある根拠はみつからない。機能とかそういう言葉では対処不可能な部位のデザインは個人の美的感覚を頼りにしなければいけない、それか文献にたよるか、一番手っ取り早いのは多くの人に見てもらい統計的にいいものを選んでもらうか。
だが不思議な事に色んなオプションがあるものの、何人かにどのデザインがいいかと問うてみるとある特定のデザインに賛成意見が集中し、結果的にスムーズに我々の答えが導きだされる事だ。みな「これがいい」という。こういう結果になり、皆が明確な理由を持たずして何か1つのデザインに集中しているところをみると、鈴木博之さんが「建築の世紀末」で指摘された「装飾の世界観的前提」の現代版的なものがあるのだろうかと考えてしまう。装飾は「自律的には存在しえぬ芸術形式」であり「共同主観的前提がない社会においては成立しえない」。装飾を支えた物語はかつては神話であった、そしてオーウェン・ジョーンズが「装飾の文法」で指摘した様に、それは自然物に移行した。そして現在。先ほど「文献」といったが、我々のサーバーにはスタイル/装飾/ムード(雰囲気)のデジタルアーカイブ的なものがある。その中に雑誌や建築書籍からのイメージやデータが蓄積されており、皆そのイメージが脳みそにインプットされている。そこじゃないかな、そこに「前提」というのがあるんじゃないかなと想像している。ネットサーフィンして得られた旅のイメージがアーカイブされ建築デザインを決定する無意識的な力になっている。そのアーカイブ、もしビジュアルかしてみるならばこのピラネージのこのエッチングのような感じになるに違いない。

食事も装飾と同じくバランスが重要であるのは間違いない。ごはん、みそ汁、豚となすの味噌いため、英国風スモークド鯖、納豆、梅干し。腹が減って仕方が無い。今気がついたが、みそ汁と味噌炒めの「みそ」は栄養的にトートロジーなのでどちらか一方で良かったのかもしれない。いやそれだけではない、大豆と考えると、納豆までかぶっているではないか。

夕飯後、ひたすら図面図面図面。時間が足りない、気がつけば24時。寝る。