長いから英文無し、セントラル・セント・マーチンズ

6月は下旬に差し掛かった。
周りでは学生達による各校卒業エクシビションの広告が目立つ時季になった。これからの数週間はシーゾナルな展示会を覗きたいと思う。早速その先手となるエキシビションへと足を運ぶ。ホルボーンはセントラル・セント・マーチンズへ。ここはアレキサンダー・マックイーン等を輩出した特にファッションが有名な伝統校である。(そういえば、この前アレキサンダー・マックイーンの格好いい靴に一目惚れした。)そしてヘルプしていたYちんが所属するナラティブ環境のMAもある。新たなデザイン分野として最近新設されたようだ。

ナラティブ環境以外の展示会もすべてみた。ファッション、セラミック、ジュエリー、テキスタイル、プロダクト・インダストリアルデザイン、環境デザイン。流石に全てを見ると頭、目も脳みそも火照って疲れた。けれども久し振りに学生の自由さとその裏に隠れた苦悩を垣間見られたようで新鮮な気持ちになれた。

ファッション|珍しい素材や着方、デジタル技術の力を借りて可能にするあたらしいファッションが提案されていた。民族的な衣装に惹かれたり、テクノロジーに惹かれたり等、学生自身のファッションに対する態度が素直に作品に現れていた。セラミック|陶磁器だ。みな具体的なモノを作成し、提示していた。セラミック自体の形態を模索するものや、植物、光などの主役となるモノに対してのセラミックの補完的な使われ方から形を提案するモノ。全体的な素朴感が好みだった。セラミック作る人達には悪い人はいないだろう。ジュエリー|展示会の中でもっとも賑わっていたように思う。展示されていた作品は、作品といえる質の高いものばかりであった。セラミック同様、実物がガラス越しに見え、実際の作品は本物の高価な金属でつくられていた。その場で学生がスカウトされ、作品が売れてしまう等有り得るだろう。分類するとすれば、人間の身体性に着目してデベロップしようとするもの、素材と複数の素材の混合から新しさを追求するもの、可愛さ、儚さ、カッコよさ、グロテスクさを追求したようなもの等だろうか。プロダクト、インダストリアルデザイン|学生達の技術的バックアップとして有力企業が名を連ねる。あるいはクライアントなのかも知れない。作品にはノキア他の有名ブランドが刻印されていた。それ故に作品は現実・実用性が求められていた、しかしながら学生各々の強い着想も実用性にかき消されず、お互いがバランス良く共存しケースの中の作品に統一されているようだった。そのままショップに並んでもおかしくない完成度の高いものが多かった。

さて、ナラティブエンバイロメント NARRATIVE ENVIRONMENT。セラミックの学生は、セラミックを、ジュエリーの学生を、ファッションの学生は服をつくっていた。ではナラティブエンバイロメントの学生は?この質問1つに尽きると思われる。「ナラティブ」、「エンバイロメント」、何れも、建築学を志す者にとっての「空間」という言葉と同類で、非常に曖昧で危険な言葉である。それらを口にするだけで、何やら一段上のヴィジョンを得たような感覚に陥る。その一段は透明な階段の一段で、確認せずに踏み込むと、あっ!、、、ヒューーっと奈落の底、別名、堂々巡りに落ちてゆくのである。僕自身よくある。言葉の響きや、アナグラムが格好良いけど、まったくシニフィエが定まっていない状態だ。そういう事が無いよう心掛けているんだけれども。
物語、、、文学の事だろうか、ある特定の事柄について古くから語り伝えられた伝承的なものか身近な神話のようなものか、それともただ何かについて語り合うことか。環境、「まわりを取り巻く周囲の状態や世界、人間あるいは生物を取り囲み、相互に関係し合って直接・間接に影響を与える外界」と辞書にあった。世の中は物語であふれ、また環境にもあふれている。人や分野によって物語の定義も、環境の切り取り方も異なる。その2つの幅広い言葉が並び合い、危険で、だがとても興味深い言葉が完成した。新たな研究分野になっていくだろうと思う。
N.E.の学生は国籍、人種、性別などが生み出す多様な視点で世の中を眺め、ユニークな調査をし、自分だけの方法を発見し、作品としてエンビジョンしていた。「発見」とか「発明」という言葉が僕はとても好きだ。特に何かを「発見」できた時のあの何かがぼっと浮かび上がってくる感覚はたまらない。おそらく「発明」出来たときの感覚というものはもっと上のものだろう。それは僕自身まだないなあ。。。学生達は混沌とした世の中から何かを発見し、提示していた。そこに至るまで苦労しただろう。セントマーティンの中でもここは一番難しいコースだろうと思う。新しいが故に学問体系ができていないし、方法や過去の蓄積が少なく、チューターも暗中模索なのではないだろうか。

「何を作ったんだろう自分は」。という自問自答が、終わってから始まるのである。これからの身の振り方が問われるという事だ。何を作ったか問うて、そして自分は何も作っていない事に気付く。何故なら作品は器ではなくて、システムだからだ。建築の学生は器をつくる、でももっとすごいやつはシステムを作る、発見的に、あるいは発明的に。そうすると「建物」が脱皮して「建築」という別格なものになる。N.E.学生はシステムを作ったのだから、それを乗車させる乗り物を見つけないといけない。システム単独では何も作動しない。作品という荷物を持って彼女彼等がこれから一体どんな車に乗車するか(どういう身の振り方をするか)という選択までを含んで眺めている方が、作品を単品でみるよりも、余程面白いナラティブデザインのように思える。


From http://www.csm.arts.ac.uk/ より

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