エクシビションにいって、リチャード・セラの彫刻が実は宙に浮いていたという発見が出来てよかった。厚さ50mm程だろうか、しなやかに曲げられたコールテイン鋼の鉄板は、柔軟で軽そうに見えた。しなやかなこの形状は元より、この軽さが一体何処からきているのだろうかと注視していたら、地面と鉄板の間に影が落ちていた。この形は鋳物ではないし、鉄板を曲げてつくられたものだろうから、鉄板のエッジと地面が接するところには必然的に隙間が走ってしまう。それにしても隙間があるにしても意味のない隙間にしては大きすぎるから、浮かせたのはきっと意図的な処理だろうと思う(勝手に)。なんか小さなピースが挟まっていた。ただ単に隙間が原因で鉄板を座屈させないための処理かも知れないし、床を傷つけないためだけかも。

でも室内展示と屋外展示、特に自然のランドスケープの中のセラの彫刻を比較すると、地面に対する配慮の違いが分かる。後者の方は、はるか昔からそこに潜在していたようなオブジェのようにぐっさり地面に刺さっている。

まわりをうろうろと彷徨っていると、彫刻と建築を隔てる薄皮の上を綱渡りしている感覚がする。傍観者の距離によってそれは彫刻にもなるし、巨大な空間体験を可能にする建築的なオブジェにもなった。視ている人をそういう曖昧なところに落とし込むのがとても巧みで、セラはそういうランドスケープ彫刻家の中では卓出している。鉄板の先天的な物質的重さ、カーテンの様な柔軟な形状からにじみ出る軽さ、コールテインの錆から感じ取る時間経過とそこにずっと居座っているかの様な歴史性、、でも浮いている。視てる人のイマジネーションの中で浮遊感覚を与える要素がたくさん入り交じっている。


地面の処理という視点から建築をみてみると色々と思い当たる。投入堂と崖っぷちが接っして醸し出しているあの浮遊感、ミースもバルセロナパビリオンの大理石の壁を浮かせてるし、フォスターかロジャーズどっちか忘れたけど、ある建築はアスファルトの歩道と建築の表面を覆うガラスがぶち当たるその境目にゴムを走らせてすごい納まり方になっていた。

前にAAの学生の作品を見て思った。パラメトリックス、つまり変数操作によってつくられた複雑な形にマテリアルや、構造的意味が与えられるデザインリアリゼーションのプロセスがあって、最終的にそれが地面と出会う時がある。でも僕の勝手な私見ですが、その出会う瞬間に気を配れる人はあまりいなかった。あそこに理想と現実がフリクションを起こしている最も重要な部分があるのに。樹木でいうと根っこの部分、栄養を吸い上げ、木が木としてそこに自立するために力学的に頑張っている一番大切なところ。そこが全く手つかずだった。
彫刻、建築と地面の関わりは深い。

それにしてもカルソ・セント・ジョーンズデザインのこのギャラリーは良かった。細部の納まりとマテリアルの選び方が品が良くて、安価そうで、とても綺麗だった。