Turner and the masters | ターナーと巨匠達

久しぶりに気合いを入れて書いてみようかなと思う。
今週水曜日からテートブリテンで新しい企画展が始まっていた。その「TURNER AND THE MASTERS」に今日いってきた。ターナーの絵画をルーベンス、、カナレット、レンブラント、ピラネージ、プッサン等、過去の巨匠達の絵画と並列し、いかにターナーが絵画技術、構成、ストーリ等を"emulate/模倣"し、それらを超える作品を創りあげてきたかの、、、実証、というか比較検討だろうか、を試みる展覧会だった。今回は気合いを入れて理解しようと思ったので、ヘッドフォンを借りてじっくり鑑賞した。
ターナーの絵画には物質の輪郭が描かれていないと感じた。物質の輪郭が消失して、隣接するものと混ざりあう寸前の状態が描かれている。でもそこにはちゃんと観察者が絵画中に何が描かれているかを理解できるぎりぎりの輪郭的なもの(物体が他の物体とは違うぞと主張する何らかの違いを主張するボーダー)が保たれている。それは油絵という表現技法そのものが、鉛筆とかの乾式絵画や水彩の湿式絵画の合間に存在するもの、半固体的・半液体的な絵画であるということにも言及できるだろう。でもそれ以上に、僕はターナー自身の世界を観察する目がとらえた世界の本質がそこには描かれていると思った。それを本人の技法として確立し、絵画として画面に定着させた事に感動した。カナレットのベネチアと、ターナーベネチアを観るとその態度は明確だった。カナレットの絵画に描かれている水には、ゴンドラや都市の像がまったく反射していない。それに対して、ターナーの水には都市が反射し溶けた様な像が描かれている。水平面上より上部に描かれた実体としての都市もまた、夕暮れの中で空気に溶け込んでいる。お互いの世界を観察する目の違いが明確に理解できる。ターナーのそれには本人が宣言するように、場所と時間がつくりだす「特別な雰囲気」が完成している。
また印象的だったのはプッサンターナーの比較。「Deluge / 大洪水」という題名だったと思う。これは見比べた瞬間に、なるほど、と合点がいく。プッサンの記号的な絵画は人物が直線的に配置され、人間の動きが固定的だった。それは人物描写が文字と同様に、解釈を半ば強制しているのにたいして、ターナーのそれは絵画中の人間が対角線上に配置され、奥行きのある立体ができ、全体として空気のダイナミックな動きが描写されている。その結果としてフレームの中には手に汗握るアトモスフィアが生まれる。もはや絵画のフレームの外にまで観察者の意識が飛んでいくほどに完成度の高い世界観がそこに提出されている。プッサンが記号解釈的であるのにたいして、ターナーは記号の輪郭をわざとブレさせ、デコードする必要性をなくしている。それよりも人物の動作=アニメーションや、激しい水の動き等でドラマティックさが描かれている。プッサンの記号が0秒を描いたとしたら、ターナーは0.5秒くらいを描いている。「Deluge /大洪水」のタイトルをよりダイナミックに想像できるのは後者、ターナーのものだった。記号的でないというと視点でいうと、ある画家の絵では登場人物の中心にモーゼが描かれていたのに対して、ターナーのそれにはモーセの代わりに一般的な街の女性が描かれていた事にもリンクしてくる。記号の解析という手続きよりも、画面の中での記号を崩して全体の雰囲気のユニティーをつくりだすという意図が込められているようだ。
ターナーの過去の巨匠達の残した遺産=歴史に対する態度はかっこいい。絵画の技術とテーマの「emulate /模倣」というベースの上で、長い間、どうしたらこれらを超えてもっとよい絵画が描けるのか、そしてどうしたら自分を巨匠達の延長線上の歴史の一部として残せるのかという、自分を外から眺めるターナーは建築家としても見習うべきなのだ。様々な大作を次々と超えてゆくターナーの偉大さが見える良い展覧会である。時間をあけてまた観に行こうと思う。
分厚いカタログを買った。今夜、寝転びながら読むのが楽しみだ。

http://www.tate.org.uk/britain/exhibitions/turnerandthemasters/default.shtm

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