建築の保存・改造ってえ〜…

「建築の世紀末」の最後の最後に今の自分に馴染む一文があった。

「近代建築の方法論が意識的なものであったのは、単一の意識によって全構造を統一的に把握するための行為としてであった。前もって建てられた建物、つまり既に全く別の他者によって作り上げられた体系を前提にして建築活動を行うことは、近代建築の理念とはなり難いものであった。近代建築は、社会的な営為として作り上げられてはいても、究極的にはひとつの統一的な原理によって全てが支配される建築であった。」
(「建築の世紀末」鈴木博之著、1977年「細部に神が宿る」)より

いわゆる「様式折衷、エクレクティシズム」というのは近代建築の目指した方角とは別の方向をむいている。その相容れない事を僕はやっている。建築のプレザベイション、リノベーション、コンバージョンこれらすべて近代建築が嫌う固有の「前提条件」がてんこ盛りである。今日も1日その前提条件で雁字がらめの状態から、ちょこちょこ何かを足したりあるいは引いたりして、これは何なのかと考えた。既存に囲まれ四面楚歌の状態で何が出来るのか。既存に圧倒され、安全で妥協的なアイデアはいくらでも生み出せる。でも、もっとドキッとするものが設計したい。だから何か、、、「アクシデント」がおこらないか待っている。でも待っていては駄目だとしたら、あるいは事故的な物を設計しないといけないのである。

大学院の石山さんのレクチャーを思い出す。奈良東大寺に法華堂(三月堂)というのがある。正面左は奈良時代740年頃につくられ、右半分はそれから460年先の未来、鎌倉時代1199年に老朽を理由に取り壊され再建された。そしてその2つの建築がぶつかるところにものすごい力強いディテールが現れる。計り知れない時間の旅がそのディテールに込められている。昔先輩と見に行って感動したのを思い出した。

これは事故ではなく意図的だ。意図してこの様に設計された。建築の保存・改造とはそういう時間を超越した精神的ジャーニーを誘発させるものであるべきだ。そういうロマン的な事がこの路線の設計には可能なのだ。観察者を物理的束縛から解放する建築。これを超えるようなもの、あるいは同等の価値を持つ建築を設計したい。


東大寺・法華堂

奈良時代鎌倉時代が出会う場所

にほんブログ村 デザインブログ 建築デザインへ
ONE CLICK PLEASE♪ TOP 4th now! /クリックお願いします☆あとちょっとで3位。