南下最終日。

6時半に起床した。
7時半に朝食が予定されているので、それまで唐桑の散歩に行こうと思い、ユースのおじさんにその旨を伝えた。
それに自分が石山研究室の学生である事と、唐桑に来た理由も言うと親切に車で港まで送ってくれた。車で5分、
でも歩くと20分くらいかかったかな。時間がセーブできた。

石山修武が88年から91年までの3年間、この港で唐桑大漁旗劇場をやった。18年の時を経てこの場所に来て
やっぱ石山修武すごいわ、、並大抵の努力じゃないなと思った。神楽坂で阿波踊りの祭りを見た時も青森のねぶた
祭りを見た時も祭りをデザインするってのは計り知れない努力がいるなと感じた。祭り無き今、唐桑の港は本当に
静まりかえってのどかで寂しげな漁村となっていた。ユースのおじさんも石山修武の事をよく知っていて、一緒に
祭りをつくりユースにも泊まったと聞いた。今は気仙沼市唐桑町市町村合併し、気仙沼市に吸収され、落ち込
んでます、寂しいですとおっしゃられた。「石山さんに、もうそろそろ来てもいいんじゃないか、とお伝え下さい」
と伝言を授かった。朝食の時に15年前の貴重なパンフレットを見せてもらった。パンフレットを大切にされてい
た。朝食すごくうまかった。写真は上が現在、下の小さい写真が17,8年前。



食事を終え気仙沼港行きのフェリー乗り場まで送ってもらい、見送ってもらった。フェリーを運転するおじいさん
船長さんも、「あ、あの石山修武先生の(訛りが表現できないのが残念)!」と驚かれて、是非又来てください!
と歓迎してくれた。石山修武の過去の町作りは形には残っていないが、その形跡は見えない形で確実に生きてるな
と実感できた唐桑だった。

30分ほどの乗船で、気仙沼港に到着。綺麗な景色が続いた。リアス式海岸と何かの養殖だろうか、の景色が綺麗
だった。フェリーの上で、日で焼けて顔が焦げ茶色のおじいさんが声をかけてくれて今日は祭りなんですよ、と丁
寧に船の上から指をさして、祭りの会場の事や花火の事、海上保安庁の事、マグロ漁船の事等教えてくれた。リア
スアークもフェリーの上から、遠くの方に米粒くらいに見えた。港に到着してから、「海の道」を歩いた。海の道
には、石山修武の設計した外灯や今風に言うとストリートファーニチャーみたいなものが残っていた。これは目に
見える町作りとして残っていた。



この港から歩いて気仙沼の駅まで行く。そしたらもうほとんどこの旅は終わりだ。あとはひたすら東京まで南下す
るだけ。40分くらい歩いて、暑かった。気仙沼から一ノ関へ、一ノ関から仙台、仙台で牛タン食べようと思った
が、余りに人が多くて駄目だった。くそー。仙台から宇都宮、宇都宮から古河、そして古河から湘南新宿ライン
池袋へ。池袋から高田馬場、神楽坂、家、ベッドへ。長く座った旅行だった。



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